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パルマの歴史
はじまり
 紀元前2世紀の終わり頃にローマ帝国の植民地として建設された。街は南北に流れるパルマ川に2分され川の東岸が主に発展した。この街が発展し隆盛をみるのはルネサンス前期の11世紀から14世紀にかけてである。
 街の城壁は5世紀末にテオドリクスによって作られ、12世紀ベルナルド2世の命で拡張された。1046年に作られた大聖堂はすぐに焼失し再建されたが1117年今度は地震により損壊し、アンテラーミによって現在のデザインの建物が再建された。洗礼堂は同じくアンテラーミにより1196年に着工。
ルネサンス期
  一方都市は近隣の都市国家との争い絶えず、やっと13世紀コムーネとしての制度を整え、泰平のときを迎える。しかし、14世紀に入ると内部抗争がぼっ発しコムーネは混乱、統一の取れぬままミラノのヴィスコンティ家やスフォルツァ家の支配を受ける。
 16世紀に入ると、フランス領、教皇領等の間を行き来し、1545年ファルネーゼ家出身のパウルス3世が息子に領地としてこのパルマを与え、以後パルマ公国となる。ファルネーゼ家はピロッタ宮殿とファルネーゼ劇場、ドゥカーレ宮殿、などをつくるが、1731年ファルネーゼ家が断絶。以後、スペイン系のブルボン家が引継ぐ。収集趣味のある同家によって国立美術館、王立図書館、国立考古学博物館が作られる。大学も整備された。
マリー・ルイーズの治世
 ナポレオンによる混乱の後、ナポレオンの妃、オーストリア皇帝の王女であったマリー・ルイーズの支配を受ける。彼女は歴代前任者と同じく寛容な統治を行ったので「愛される皇妃」として語り継がれた。その時代にレージョ劇場が作られる。
 彼女の死後、再びブルボン家の支配を受けるが、1860年サルディーニヤ王国に併合、イタリア王国へ統合された。
ピロッタ宮殿
ピロッタ宮殿

ドーモ
大聖堂

ガリバルディ広場
ガリバルディ広場

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