中世時代 -2

2.ヨーロッパ大陸の中世時代
 荒廃したイタリアにやってきたのは結局ゲルマン人だった。
 493年、テオドリックが東ゴート王国を建国する。
 534年、東ローマ帝国皇帝のユスティニアヌスがそれを滅ぼす。シチリアのイスラム王国も倒し、総督府をラヴェンナに置く。シチリアのビザンチン風の寺院はこの時代に造られた。
 568年、しかしすぐにゲルマンのランゴバルト族が北イタリアを征服し、ランゴバルト王国を造る。
 その頃、ヨーロッパ大陸ではフランク王国(メロヴィング朝フランク王国)が誕生し勢力を伸ばしていた。
 フランク王国の発展の基礎を築いたのはクローヴィスという王である。(481-511)フランク族は他のゲルマンがキリスト教アリウス派(ローマ・カソリックからは異端とされていた)を信じていたのに対し昔からのゲルマンの多神教を信じていた。彼はその宗教を捨て、ローマ人が信じるアタナシウス派(ローマ・カソリックのキリスト教)に改宗した。それによってガロ・ローマ人と協力関係ができ、お互いが結婚することもできるようになった。それによって、フランク王国を建国することはできたが、改宗したと言っても実際はゲルマン族の元々の宗教習慣(多神教)がすぐになくなったわけではなく、国王は一夫多妻が普通で、国は国王の私有財産だったため、死ぬと息子達が分割相続して国は分裂した。
 クローヴィスの死後、国は3つに分割され、お互いが争うようになり、荒廃していく。そんな中で分割された国の一つアウストラシアに有能な宮宰(今の総理大臣)が現れ、次第に権力を握っていった。この家系がカロリング家で、カール・マルテルの時代には全フランク王国(形式上、まだこの名前は残っていた)の宮宰となる。
 彼はピレネー山脈を越えて攻めてきたイスラム軍を撃退し名声を確立した。そして彼の息子のピピン3世のとき、弱体化したメロヴィング家に変わり、選挙によってフランク王国の王に選ばれ、ローマ教皇の後ろ楯も得て、フランク王国の王になった(カロリング朝フランク王国誕生)。
 教皇はその見返りとしてピピンが攻め落としたイタリア内のランゴバルト王国の領土を贈られた。(ランゴバルト王国滅びる:774年)。これが教皇領の始まりである。
 カロリング朝のフランク王国は、ピピン3世の息子のカール大帝の時代に最大になる。そのとき、教皇は東ローマ帝国に対抗するため、彼をローマ帝国皇帝とし、冠を授けた。以後、ドイツの王はローマ帝国皇帝(後に神聖ローマ帝国皇帝)を名乗ることとなる。