中世時代-1

カール大帝戴冠

1.西ローマ帝国の滅亡

ラヴェンナ、サンビターレ教会

 アドリア海に面した北イタリアにラヴェンナという街がある。西ローマ帝国がゲルマン人に滅ぼされた後、一時東ローマ帝国がゲルマン人を追い払いこのラヴェンナに首都をおいていたことがある。そのラヴェンナのサン・ヴィターレ教会の庭にガラ・プラキディアの霊廟がある。小さいが、群青色のモザイクで飾られた天井は今も色鮮やかで美しく、別世界のような空間を形作っている。
 このガラ・プラキディアは兄弟が皇帝という家系の母を持ち、父は東ローマ帝国の皇帝だった。彼女の生まれは390年頃といわれ、ハッキリとした歳は分かっていない。
 彼女の時代はローマがゲルマン人にたびたび敗れて不安定な状態が続いていた帝政末期であった。時々堅帝が現れ、ゲルマン人と和解し、トラブルを収拾しても、今度はゲルマン人を重用し過ぎるとローマ系の軍人が反乱を起こすという有り様で、かっての平和な大帝国の面影はなくなっていた。
 5世紀頃、東ローマ帝国のテオドシウスの元で働く2人のゲルマン出身の将軍スティリコとアラリックがいた。共に皇帝の元でゲルマンの侵入を阻止したが、テオドシウスの死後、スティリコは皇帝の遺言に従って西ローマ帝国の執政官となりローマに蛮族が侵入するのを防いだ。
 そのとき袂を分かったアラリックは、西ゴート族の軍を率いてローマに進軍してきた。対したスティリコはこの戦に勝ちローマを守ったが、功を立て民衆にも人気のあるスティリコを保身に走る官僚と西ローマ帝国の皇帝が結託し暗殺してしまった。
 ローマは再び攻めてきたアラリックの軍勢に敗れ、陥落したが、アラリックはテオドシウスの理想だったローマとゲルマンの融和を忘れてはいなかった。彼はローマに畏敬の念を抱き、ローマの帝国軍総司令になれるのならそれでもよしと願い出たが、ラヴェンナにいた皇帝ホノリウスはゲルマン人を嫌い、断固その願いを拒否した。その上、アラリックと敵対する西ゴート族のサルスを使って奇襲をかけ挑発した。
 ついにアラリックは怒り、ローマに進軍、街は火の海と化した。掠奪暴行放火は3日3晩続き、徹底的に破壊された。410年のことである。
 多くの捕虜を連れて北に戻ったアラリックの軍勢の中に捕虜となった東西ローマ皇帝の血を引くガラ・プラキディアがいたが、アラリックの息子アタウルフが彼女に恋をし、二人は結婚することとなった。相思相愛だったこの結婚が長く続き、子供に恵まれれば、新しい時代が来たかもしれなかったが、残念ながらゲルマンの王子のアタウルフは早くに暗殺され、ゲルマンとローマの合体は夢に終わった。
 その後、ホノリウスなど最悪の皇帝をいただいたローマは急速に衰退した。だが、アタウルフの死後、西ゴート族はガラ・プラキディアをラヴェンナに戻し、その後ローマに攻め入ることはなかったそうな。450年に彼女は死んだ。
 プラキディアの生きている間は、ローマが蛮族に侵入されることはなかった。ローマはその後476年、皇帝のロムルス・アウグストゥスがゲルマン出身の傭兵隊長オドアケルに殺され、滅びた。


ガラ・プラキディア霊廟内部