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レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯

5.老年時代:ローマ・フランス時代

 1506年、6月ミラノに到着する。このとき54才である。
 彼はこの後もフィレンツェ政庁から「アンギアーリの戦い」の絵を仕上げるよう催促を受けるが、フランス人総督ダンボワーズの援助を得て、フィレンツェへの帰還は拒み続ける。
 60才までミラノに滞在するがこの時期、主だった活動は何もしていない。
 1513年、ジョヴァンニ・デ・メディチがレオ10世と名乗る教皇となり、レオナルドのパトロンのジュリアーノ・デ・メディチはローマに赴く。それに伴ってレオナルドもローマに旅立つ。
 ヴァチカンではヴェルヴェデーレ宮殿に居を構え、凹面鏡の研究等をしている。この時期は、ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の天井画を描き終えた頃で、彼の他にもラッファエッロやブラマンテ、ジュリアーノ・ダ・サンガッロなどの芸術家、建築家達がローマにいた。
 もっとも花々しく活躍していたのはラッファエッロだった。彼はレオ10世の寵愛を得て、ヴァチカン内部に壁画を描くだけでなく、ローマの遺跡の発掘の総責任者にも抜てきされヴェルヴェデーレのトルソやアポロン像等を発見している。
 だが、この頃レオナルドは、絵画製作等は行っておらず、自分の好きな科学の研究に没頭していたようだ。それは彼の望んだ事なのか、注文がなかったのか、どちらだか分からない。
 1516年、彼のパトロンのジュリアーノ・デ・メディチが若くして亡くなり、秋頃、フランソワーズ1世の求めに応じて、フランスへ出発する。
 1517年5月、フランス、アンボワーズ郊外のクルー城に到着。
 この頃、ロモランタン付近の運河工事にたずさわったり、シャンボール宮殿の建築を任されたイタリア人建築家コルトーナの作業に協力している。
 1519年、5月2日、クルー城で死去。享年67才。
 この年、神聖ローマ帝国皇帝のマクシミリアン1世が死に、フランソワ1世とスペインのカール5世がその後を巡って争い、ドイツ商人に大金を借り選帝侯を買収したカール5世が皇帝となる。しかし彼はその後莫大な借金に長く苦しめられる事となる。
 また、マジェランが世界一周の航海に出発したのもこの年である。