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1500年、レオナルドが48才の時、再びフィレンツェに帰ってきた。
1492年に街を支配していたロレンツォ・ディ・メディチが死に、息子のピエロは街を追われていた。ロレンツォ以後のフィレンツェを支配していたサヴォナローラも処刑され、フィレンツェは共和国となっていた。しかし、サヴォナローラの影響はまだ色濃く、芸術家達は意欲を失っていた。
レオナルドは1502年に1年ほどチェーザレ・ボルジアに雇われ、ロマーニャ地方を旅している。
その頃、フィレンツェ共和国は、ローマで人気を得た若くて元気な彫刻家に市の象徴としての彫像を依頼した。それがダヴィデである。
完成した像をどこに置くかという評議会にレオナルドも参加している。彼は大理石が痛まないようにシニョーリア広場横にあるロッジアに飾るべきだと主張するが、市とミケランジェロの意見はヴェッキオ宮殿の前であった。結果、長い間そこに置かれていたが、痛みが激しくなり、現在はアカデミア美術館内に移されている。
この頃レオナルドの父親が亡くなる。享年80才。
ダビデ像が完成した頃、レオナルドとミケランジェロはヴェッキオ宮殿の大広間を飾る壁画を依頼された。 レオナルドに与えられたテーマは「アンギアーリの戦い」だ。彼は大いに乗り気で、戦争に参加した人達から話を聞き、多くのスケッチを描いた後、壁画に取りかかった。
この時期にモナリザも描かれた。彼の懇意にしていたサンタマリア・ノヴェッラ教会の開廊を借りて描いたとされている。モナリザの絵では腰までの壁が描かれその左右に黒い丸が描かれているが、これは開廊の柱の台座部分になる。後ろの風景は近年の研究ではアレッツォ郊外の風景だと考えられている。
一方、宮殿の壁画に、フレスコ画が描けないレオナルドは今度は蝋画というローマ時代の古い技術で挑んだらしい。油絵だったという説もある。蝋で溶いた絵の具で描き、火であぶって乾かすと堅牢な画面が出来上がるというものらしい。小さな絵で試した結果は良好だったが、実際に壁画を描いて試してみると、大きな画面を短期間で乾かすのは難しく、蝋と共に絵の具が解け流れて、この描法は失敗に終った。
消沈したレオナルドはミラノに行ってしまった。おかげで彼は高い違約金を取られたらしい。1506年頃のことである。
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