歴史タイトル

レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯

3.成年期・ミラノ時代

 1482年30才の年にレオナルドはミラノに赴く。
 彼がなぜミラノに行ったのかについては諸説あるが、はっきりした事は分かっていない。バザーリは音楽家として推薦されたと書いているが、私説としては、彼はイベントデザイナーとしてミラノに行ったのではないかと思っている。彼の師匠のヴェロッキオは、フィレンツェで、多くの祭事の演出を手掛けている。レオナルドもロドヴィーゴの結婚式等いくつもの祭事の色々なイベントを演出している。当時のミラノは陰謀の渦巻く危険な街であった。そんなところでは人々は刹那的になり、花火のような華やかではかない祭事が好まれると言う。
 レオナルドは、ミラノに来た直後、サンフランチェスコ・グランデ教会から祭壇画を依頼された。これが後々長くトラブルことになる「岩窟の聖母」の絵の依頼である。協会側がこの絵を気に入らず、レオナルドは色々な修整を要求された。長い争議の結果、新しく教会側の依頼を入れた絵を描いた。
 現在ルーブル美術館にあるのが最初に描いた「岩窟の聖母」でロンドンのナショナルギャラリーにあるのが後から描いた「岩窟の聖母」である。二つの絵を画集等で見比べてみるとレオナルドのこだわりと教会のこだわりが分かって興味深い。
 ミラノ時代、彼は有名な「最後の晩餐」をサンタマリア・デッレ・グラツィエ教会に描く。彼は短時間に描き切ってしまわなければならないフレスコ画が苦手で1枚も描いていない。
 壁画はフレスコ画が一番適しているが、この教会の絵は油で溶いたテンペラで描かれている。そのため、長持ちせず、ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の天井画に比べ著しく損傷している。この描いた場所が食堂であったのも災いしているらしい。
 また、ロドヴィーゴの愛人だったチェチリア・ガッレラーニの肖像画だと言われている「白てんを抱く貴婦人」の像もこの時期の作品である。
 他に、ロドヴィーゴの父親であるフランチェスコ・スフォルツァの騎馬像を発注されるが、長い年月をかけ、ついにそれを完成させる事はできなかった。彼が原形の準備を進めたとき、ちょうどフランスとの戦争が始まり、騎馬像用のブロンズは大砲にまわされてしまったとレオナルドは手記に書いている。
 しかし、一方で彼のデザインした騎馬像は実際には作成が不可能なものだったという説を唱える日本の研究家もいる。
 ロドヴィーゴはフランスとの戦に敗れ、レオナルドは知人の数学者や弟子と共にミラノを出て、ヴェネツィアへ行き、フィレンツェに戻った。この旅の途中、マントヴァのイザベラ・デステを訪ね、肖像画のスケッチを描いている。