歴史タイトル

ミケランジェロ・ブオナッローティの生涯

4.壮年時代

 教皇は彼にフィレンツェに行き、メディチ家の菩提寺であるサン・ロレンツォ教会のファサードのデザインをするようにと言う。
  何人かの合作で作るようにと言う申し出に対し、ミケランジェロは、他の人の仕事ぶりが気に入らず、自分一人で完成させようとする。結局ファサードの木製デザインまでは完成したが、資金が集まらないという理由でこれは中止となる。
 この頃1519年の5月2日レオナルド・ダ・ヴィンチがフランスで死去。享年67才。
 その翌年の1520年4月6日ラッファエッロ・サンティがローマで死去。享年37才。
 そして、1521年にはレオ10世も死んでしまう。
 だが、資金難でファサードの制作が中断したそのすぐ後、今度はサン・ロレンツォ教会の新しい聖具室を作り、そこをメディチ家の墓所にするという案がミケランジェロに発注される。ファサードを作る金はないが、聖具室を作る金はあるというのも変な話だが、ファサードの件が中止になった同じ1520年にミケランジェロは新聖具室の制作を開始する。
 ロレンツォ・デ・メディチの死後、一旦フィレンツェを追われたメディチ家はサヴォナローラ失脚の後、再びフィレンツェに戻り潜主制をしいていたが1527年メディチ家が追放され、フィレンツェは共和制に戻った。だが、1530年ときの新聖ローマ帝国皇帝カール5世の後押しでメディチ家がフィレンツェを攻め再びメディチの支配する街となる。
 このメディチ家との戦いにフィレンツェ共和国側の軍事委員として参戦していたミケランジェロは、フィレンツェ陥落と共に行方をくらまし約半年間隠れていた。この隠れ場所は長い間謎とされていたが、つい最近、サン・ロレンツォ教会の地下室にミケランジェロのデッサンが壁に描かれた部屋が発見され、そこに半年隠れていたということが分かった。その後、メディチ家の事実上の当主であったジュリオ・デ・メディチ、当時のクレメンス7世に許され、新聖具室を完成させるよう依頼される。
 彼はここに4人の墓を作ることを依頼されていたが、実際には当時死んでから間もない、ヌムール公ジュリアーノとウルビーノ公ロレンツォの二人の墓を作ったところで放り出し、ローマに行ってしまった。残りはイル・マニフィコ(偉大な人)と言われたロレンツォとその弟のジュリアーノ(これは教皇クレメンス7世の父)の墓であるが、その二人は聖母子の像の下に安置されている。
 この新聖具室製作中の1531年父のロドヴィゴが死ぬ。
 1533年教皇クレメンス7世からシスティーナ礼拝堂の正面の壁に「最後の審判」の壁画を描くよう依頼される。しかし、教皇は翌1534年に死去。パウロ3世が教皇となるが、彼もミケランジェロに壁画を依頼し、1535年60才になったミケランジェロはローマに向かい、「最後の審判」を描きはじめる。さらに教皇から法王庁の主任建築士、絵画士、彫刻士に任命される。これでミケランジェロはローマで芸術家として最高の権力を手に入れる。しかし、この頃から彼は報酬としてのお金を受け取らなくなっていた。父も死に弟も死に、残っているのは甥くらいだったから必要なかったのかもしれない。