|
1535年ビットリア・コロンナと知り合い、心の友として多くの手紙をやり取りすることになる。
1541年「最後の審判」完成。
ユリウス2世墓碑制作を続ける。墓碑を飾る彫刻として新しく「ラケル」と「レア」を作成。また、パウロ3世からパオリーナ礼拝堂に2枚の壁画を依頼され、「聖パウロの回心」を1545年に、「聖ペテロの磔刑」を1550年に完成させる。このときなんと75才である。また、1547年にはサン・ピエトロ大聖堂の建築主任に任命される。これによって長年の懸案だったサン・ピエトロ大聖堂の建て替えがやっと実現したのである。ただし、あの世界一大きいクーポラが完成するのはミケランジェロの死後である。
その後、ミケランジェロは、「ドゥオーモのピエタ」「パレストリーナのピエタ」を作る。
ところが1549年にパウロ2世が死んで10年後の1559年に宗教会議が開かれあのシスティーナ礼拝堂の壁画の裸体像に腰布を描くという決定がなされた。その意を汲んで、ダニエレ・ダ・ヴォルテッラという画家が腰布を描き足した。これをミケランジェロはどんな思いで見ていたのだろうか?このときの彼の歳は、84才である。この歳に彼は遺作となる「ロンダニーニのピエタ」を彫り始める。
翌1560年ローマの城門「ピア門」を設計する。1561年には現在レプブリカ広場の一部を構成しているサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会のファサードを設計している。そしてその3年後、1564年89才、ローマで死去。
ちなみにこの同じ年イギリスでシェークスピアが生まれている。

ユリウス2世墓碑の中央にあるモーゼ像
参考図書:
|