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最初は、ユリウス2世の墓碑を作るという話だったが、その後、それは後回しにしてシスト4世(ユリウス2世の叔父で彼を枢機卿に取り立ててくれた人)が作ったシスティーナ礼拝堂の天井に壁画を描くようにという注文を出される。彼は前言を反古にした教皇に腹を立てローマから立ち去った。
実際、彼は1年もかけて山にこもり40体の彫像を作れるだけの大理石をすでに切り出してきて、サンピエトロ聖堂の前の広場に持ち込んであった。しかも、その代金は払わねばならないのである。
ユリウス2世から再三に渡ってローマに戻るように言われるが、フィレンツェに居すわりローマへは行こうとしなかったが、結局和解し1508年、33才の春から壁画を描きはじめる。
彼は自分は彫刻家で絵描きではないからこんなに大きな天井画等描けないと最初はいやがっていたが、しかし同時に彼は故郷フィレンツェから来てもらったフレスコ画の専門家の仕事が気に入らず、彼等を全部国に帰してしまい、天井のしっくいも全部剥がして彼が描き直したのである。
フレスコ画というのは、壁(この場合は天井だが)に漆喰を塗り、それが濡れている間に水で溶いた顔料で描くという技法であり、当時壁画を描くもっとも適した方法だったが、漆喰は約8時間で乾いてしまうのでその間に絵を完成しなければならない。しかも、濡れているときと乾いたときでは色が変わるのでそれも計算に入れて描かねばならない。
レオナルド・ダ・ヴィンチなどは何度も描き直して絵を仕上げるたちなのでフレスコ画は彼には合わず、1枚も描いていない。彼が巧みにフレスコ画を描ける作家であったなら、あの「最後の晩餐」ももっと完全な形で残っていたに違いない。そこがダ・ヴィンチの不幸であった。
天井画は 散々苦労して37才の秋に完成。
これもたちまち大変な評判になる。しかし、ユリウス2世はすぐに死亡。彼の墓碑は結局間に合わなかった。
この墓碑は最初40体以上の彫刻に囲まれた巨大なものであったが、実現不可能ということでどんどんと縮小され、結局3体の彫刻を持つ小さなものになり、1545年ミケランジェロ70才のときに完成。現在ローマのサン・ピエトロ・イン・ビンコリ教会に設置されている。ここはユリウス2世(デッラ・ローヴェレ枢機卿)が枢機卿時代に大司教をしていた教会だからである。
さて、ユリウス2世の死んだ後、ロレンツォ・デ・メディチの次男のジョヴァンニ・デ・メディチが教皇となりレオ10世を名乗る。
彼はローマでの仕事を全てお気に入りのラッファエッロ・サンティに任せ、ミケランジェロはヴァチカンの仕事からはずしてしまった。彼はユリウス2世の墓碑制作があったからそちらに専念できると喜んだ。
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