歴史タイトル

ミケランジェロ・ブオナッローティの生涯

2.青年時代

 20才になって、一旦フィレンツェに戻ったミケランジェロは、翌年の1496年にローマに向かった。彼が作った「キューピッド」が評判を取り、リアーリオ枢機卿に呼ばれたのである。彼はそこで自分に彫刻を依頼してくれるパトロンを探した。
  最初はヤコポ・ガッリという貴族から「バッカス」の注文を受ける。バッカスは酒の神でデュオニソスとも言われる。これは現在フィレンツェのバルジェッロ美術館にある。
 その後もパトロン探しに苦労したミケランジェロだが、ついにフランスの枢機卿ジャン・ピレール・ドラグラールから「ピエタ」の発注を受ける。ピエタとは、磔にあったキリストのなきがらを抱いて悲嘆にくれるマリア像のことである。彼は23才のときこれを受注し25才に完成した。
 この作品が現在サン・ピエトロ聖堂に入ってすぐ右に飾られているピエタである。これはたちまち大評判になり、ローマ中の人々が見にやってきた。そのとき、見に来た一人が「これは我らが故郷ミラノのゴッボという彫刻家が作ったんだ」とかデタラメを言っているのを聞いたミケランジェロは夜になって聖堂に入り、マリアの胸に斜にかかっている帯に自分の名を刻み込んだという。これは、ミケランジェロの伝記を書いたヴァザーリが書き残している逸話である。ミケランジェロが作品に名を刻んだのはこれが最初で最後である。
 ローマでの成功でイタリア中に名を知らしめた彼は、意気揚々とフィレンツェに帰って来た。1501年彼が26才の春である。
  ピエタに続き発注を受けた聖母子像を完成した彼は、フィレンツェに放置されている巨大な大理石に眼をつけた。それは、かってシモーネ・ダ・フィエーゾレが挑んで中途で放り出したいわく付きの大理石だった。フィレンツェ政庁のものであったその大理石に彼はダヴィデ像を作るようにと依頼された。26才のときに依頼を受け、29才で完成させた。それは4メートル以上もある大石像だった。
 この像は、さっそくシニョリーア広場のヴェッキオ宮殿前に設置された。現在の広場にはレプリカが飾られ、本物はアッカデミア美術館の中に飾られている。そこに移されたのはほんの百年くらい前でそれまでは、あのヴェッキオ宮殿前に飾られていたのである。
 彼はこの像を完成したあとすぐにまたフィレンツェ政庁から、今度はヴェッキオ宮殿内に壁画を描くという注文を受ける。
 この宮殿の中には5百人広場といわれる大広間があり、その左右の壁を壁画で飾りたいという注文だった。もう一方の壁にはレオナルド・ダ・ヴィンチが描くことになった。これが無事完成していたら、世紀の大傑作になったであろうが、残念ながらダ・ヴィンチが途中で投げ出し、続いてミケランジェロも中断してしまったため、現在ここには何も残っていない。
 上記の壁画の制作にかかっている最中にときの教皇ユリウス2世から呼び出され、彼は壁画を中断してローマに向かった。1505年彼が30才のときだった。


ダヴィデ像