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ヴィテルボの歴史 |
ヴィテルボという地名は「ウエトゥス・ウルプス=古い町」というのが語源だと言われている。ただし、確証はないらしい。
「ウィクス・エルビイ」という名は、ローマの小植民市となったと推定されるエトルリア人の町で、その遺跡は「ドゥオーモ橋の八層の巨石」とわずかな「城壁の遺構」が残っている。
三角形をした町の形は中世期のもので、もとは2つの流れが合流するところに形成された、ささやかな村から発達したもの。現在川は埋め立てられてしまった。
この場所には今は古い城のあるサン・ロレンツォ広場がある。そこからほど近いところにある中世のサン・ペッレグリーノ通
り地区には13世紀風の建物が並び、まさにその頃全盛期を迎えたかってのヴィテルボを彷佛とさせる。
当時この町はオットー4世、ついでフェデリコ2世、また当のローマとの度重なる戦いを経て、1257年ここに逃亡したアレクサンデル4世を迎えて教皇庁所在地となった。
ウルバヌス四世はここで教皇に選出されている。クレメンテ四世がホーエンシュタウフェン家のコンラディンに破門状をたたきつけたのはここの居館からであるし、グレゴリウス十世が選出されたのもハドリアヌス五世が亡くなったのもここである。
またヴィテルボからはヨハネス二十三世とニコラウス3世、ついでシャルル・ダンジューの策謀に助けられてマルティヌス四世が教皇位
についている。このときヴィテルボの住民は叛乱を起こして破門され、以後長年にわたって教皇がこの町に足を踏み入れることはなかった。
つづく2世紀というものコムーネ(共和国政府)はしばしばローマと戦をまじえ、ガッティ家とディ・ヴィーゴ家の二領主が覇権を競った。やがて教皇が町を平定し、自治は制限された。
15〜17世紀に新たに多数の建造物が建てられたがヴィテルボの中世的外観はほとんど変わらなかった。しかし、ファシズム時代のウルチオニオ川の埋め立て、ファウール谷の破壊などの都市計画や、1944年の連合軍による爆撃、戦後における城壁附近の無秩序な開発のおかげで、都市組織は大幅に歪められてしまっているという。
教皇の居館だったパピ宮殿は、この町の歴史と教皇庁の歴史とがもつれあっていたことを語ってくれる。
ここで生まれた教皇、亡くなった教皇(ヨハンネス21世はある夜、寝室の床が抜けたため非業の死をとげた)、また教皇に選出された者もいる。
グレゴリウス10世のあと延々33ヶ月も空位が続いたとき、史上初のコンクラーベが行なわれたが、聖ボナヴェンツゥーラの助言を受けた行政官、ラニエロ・ガッティは「鍵で(クム・クラーデ)」いがみ合う枢機卿達を一室に閉じ込め、部屋の屋根をぶちぬ
き、兵糧攻めにしたという。それ以来、コンクラーベは一室に閉じこもり、新しい教皇が決まるまで、そこから出てこないという習わしになった。 |
ヴィテルボ市地図

パピ宮殿

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