ラヴェンナの起源については、はっきりしたことは分かっていないらしい。ローマ時代の歴史家でさえ、古代エトルリア人が作ったという説とテッサリア人が来て、その後ウンブリア人がやってきて町をつくったという説に分かれている。
その後、ローマのカエサルの時代頃に町としての重要性を認識され始め、色々なインフラ整備を始められた。特にラヴェンナが海に面
しているので、250隻の船を収容できるような巨大な港を作り、町は栄えていった。
2世紀にはトラヤヌス帝が70Kmに及ぶ水道橋を作り、コンスタンティヌス帝以後には、いくつもの教会が建てられた。
402年にはホノリウス帝が西ローマ帝国の首都をこのラヴェンナに移した。409年、西ゴート族のアラリック王がローマを強奪、皇帝テオドシウスの娘ガッラ・プラキディアはゴートの捕虜となった。しかし、アラリックの後継者だったアタウルフが彼女を見初め結婚、二人は幸せなときを過ごした。が、まもなくアタウルフは暗殺され、ガッラ・プラキディアはローマに戻され、ラヴェンナにやってくる。
プラキディアは、コンスタンティヌス将軍と結婚、その子が皇帝となる。プラキディアの子、ヴァレンティアヌスはまだ幼かったので、プラキディアが後見人となりローマ帝国の政治を司った。この統治期間に彼女はラヴェンナにとどまり、ローマも平和が続いた。
彼女は死後、このラヴェンネに葬られた。その霊廟は聖ヴィターレ教会の敷地内に建てられており、今でも多くの観光客がそこを訪れる。
やがて、5世紀の終わり頃、西ローマ帝国は滅び、それと同時にラヴェンネも寂れていった。現在も、ラヴェンナの町にはルネッサンス様式の建物は多くなく、バロックの建物は更に少ない。それは、この町が西ローマ帝国末期に栄え、その後ふたたび栄えることがなかったからである。だが、そのおかげで、教会は新しい様式に建て替えられることなく、古い様式を残し、華麗なモザイク画を今も鑑賞できるのである。 |
ラヴェンナ市

テオドシウスの墓
ガラ・プラキディアの墓
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