リッカルディ宮殿(旧メディチ宮殿)

リッカルディ宮殿(旧メディチ宮殿)
Palazzo Medici-Riccardi


 サン・ジョヴァンニ洗礼堂とドゥオモの間の道を北上すると左手に見えてくるのがメディチ・リッカルディ宮殿である。
 1444年、コジモ・ディ・メディチ(コジモ・イル・ヴェッキオ)の依頼でミケロッツィが設計したもの。建設当時はほぼ正方形の建物で東南の角にはロッジアが設けられていた。16世紀の前半にミケランジェロによってロッジアは塞がれてしまった。
 メディチ家がピッティ宮殿に移った後、ここはリッカルディ家の所有となる。そのとき、現在のカヴール通 りに面した方が大きく延長され現在に至っている。
  3層の壁面の1階は大きく荒削りの石を積み上げて造られ窓の小さいが、2階、3階と上がるにつれて窓は大きく、石も小さくなり磨きあげられ繊細になっている。
  当時は街の中とはいえ、貴族同士の争いもあって1階は要塞となりうる造りになっていた。今でもこれらの建物の1階の窓は太い鉄格子がはめられている。
 中に入ると、ほっそりとした柱の柱廊で囲まれた優雅な中庭に出る。 右側の階段から2階に上がるとベノッツォ・ゴッツォリ作の「ベツレヘムに向う東方の三賢王」(1459〜60年)がある。この部屋は「マギの礼拝堂(Cappella dei Magi)」と呼ばれている。マギとは三賢王、三賢人あるいは三博士とも言われる、キリストが誕生したとき遠くから訪れ贈り物をした人達のことである。ここにはメディチ家を始め当時の人達の肖像画が描かれている。
 1439年にコジモ・デ・メディチの努力によりギリシャ正教とローマン・カソリック教会の統一公会議がフィレンツェで行われた。コジモは古代から継承したキリスト教の東西文化を統合する会議を受け持つことによって、フィレンツェの文化的地位 を高め、同時にビザンチン皇帝と親交を結び、東方貿易で有利な立場を得ようとした。
 この時フィレンツェにやってきた東方(西ローマ帝国)の人達は皇帝を始め、司教、神学者、官吏など700人以上いたという。このときからフィレンツェにおけるギリシャ文化の研究が盛んになった。また、西ローマ帝国はこの14年後にオスマントルコによって滅ぼされ、ギリシャの優秀な人材が多くフィレンツェにやってきた。
 ゴッツォリの絵は、その会議を記念して描かれた。
  フレスコ画とは思えないような丹念な筆致で色彩豊かに描かれている。このようなフレスコ画は現地に赴かぬ 限り見ることが出来ない。油絵とは違う乾いた明るい色彩が素晴らしいのでぜひ、当地を訪れゆっくりと鑑賞していただきたい。

入り口
中庭の彫像